Blog
近江牛は江戸時代からのブランド牛だった。
12月10日、滋賀県守山市にあります守山宿・町家“うの家”へ行きました。宇野宗佑・元首相の生家で、今は市民の交流の場やレストランや喫茶店があります。
近江牛レストラン・咲蔵さんのパンフレットを見ますと、美味しそうな近江牛が載っていました。奮発して近江牛を食べようと思いましたが、お昼ご飯を食べた後だったので美味しい近江牛のレポートは後日にします。そこで今回は近江牛の話を書きます。
近江牛は江戸時代からのブランド牛肉です。学校の歴史の教科書では、明治維新の文明開化の象徴として、ざんぎり頭、牛鍋を取り上げています。
あたかも明治以降に牛肉を食べるようになったと思われがちですが、近江牛は江戸時代からありました。
近江牛の歴史(滋賀県庁のサイト)
江戸時代、彦根藩は近江牛を味噌づけにし、それを将軍家や御三家などに献上していました。
当時は牛の味噌漬けは滋養強壮の薬用とされていました。仏教の影響で堂々と牛肉を食べれなかったため、薬用という名目にしたといわれています。
ところが井伊直弼が彦根藩の藩主になった途端、近江牛の味噌漬けの生産の中止を行いました。
井伊直弼は彦根藩の14男だったため、跡継ぎとされなかったため、お寺に預けられました。当時、跡継ぎ候補でない子供は食うに困らないよう、養子に出されるか出家させられるかでした。
しかし、兄たちが次々と亡くなったため、棚ぼたで藩主になりました。
敬虔なる仏教徒になっていた井伊直弼は「殺生は好まん」といって近江牛の味噌漬けの生産をやめてしまいました。
それに不満を持ったのは水戸藩の藩主・徳川斉昭でした。今年の大河ドラマ「青天を衝け」でも徳川慶喜の父親として登場していました。
余談ですが、徳川斉昭を演じていた竹中直人さんが徳川斉昭の肖像画とそっくりなので、ネットでは話題になっていました。
徳川斉昭が井伊直弼に対して「近江牛が食いたいから、せめてうちだけでも送ってくれ」と要請しました。
しかし井伊直弼は「俺は仏教徒だ。殺生は好まん」と言ったかどうかはわかりませんが、ガンとして譲らず。徳川斉昭の怒りを買いました。
井伊直弼は敬虔なる仏教徒で殺生を好まないと書きましたが、安政の大獄で多くの人を処刑しました。なんだか矛盾していますね。
もっとも仏教を推進していた蘇我馬子、聖徳太子の連合軍が物部守屋を滅ぼしたのも矛盾ですね。
その後、桜田門外の変で井伊直弼は殺されました。その時に水戸藩の藩士も暗殺に関わっていました。
事実か俗説かはわかりませんが、徳川斉昭は水戸藩士が井伊直弼殺人事件に関わっている情報を得ながらも、近江牛を送ってくれなかった事を根にもっていたため、あえて井伊直弼に伝えなかったという話があります。もし、それが事実としたら「食い物の恨みは恐ろしい」といった所です。
余談ですがNHKのブラタモリで近江さんがタモリさんの相棒だった時代、近江牛の事は取り上げていませんでした。もし、取り上げていたら「近江さんが近江の地で近江牛を食べる」という駄洒落が出てきそうですね。