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銅鐸博物館。滋賀県野洲市
12月10日、野洲市にあります銅鐸博物館へ行きました。
正直な事を書きますと、私自身、縄文時代、弥生時代、銅鐸にはあまり興味がありませんでした。普段なら通り過ぎそうな所でしたが、ふと直感が働き、この博物館へ行きましたら、思いも寄らぬ事を知り勉強になりました。
野洲市に銅鐸博物館がありますのは、野洲市で銅鐸が大量に発見されたためです。
1881年(明治時代)に14個の銅鐸が発見された。当時は考古学が一般に広がっていないため、発見者は銅鐸が何なのかわかりませんでした。県や警察に届けた所、大発見ということになりました。
そして1962年、東海道新幹線のための工事で山を削っていたら再び10個の銅鐸が出てきた。この時、発見者は銅鐸が何かわからないが、お金になると思い、美術商に売りました。幸い銅鐸だとわかり、そのまま拡散する事を防ぐ事ができました。
大岩山銅鐸と滋賀県出土銅鐸・小銅鐸(野洲市役所:大岩山出土銅鐸一覧)
博物館の入口には巨大な銅鐸のレプリカが置いていました。実際に発掘された巨大銅鐸の実寸大です。
銅鐸といえば緑色を連想していましただけに黄金色の銅鐸に驚きました。よく考えますと青銅なので10円玉と同じで、銅鐸が生産された時は黄金色でピカピカです。
予想外の衝撃でした上、銅鐸は緑色という思い込みの呪縛から解放されました。思い込みは怖いですね。
銅鐸の説明で、中国や朝鮮半島から伝わった事、中国や朝鮮半島では放牧用の牛や馬などを呼ぶ鐘だった事が書かれていました。しかし、日本に伝わった時、牛や馬は伝わらず、銅鐸だけが伝わったため、日本では祭祀用に発展したと書かれていました。
銅鐸の歴史、今まで考えた事がありませんでしたので、牧畜用の鐘が祭祀用の鐘になったというのは意外でした。
そして銅鐸は日本で生産されましたが原材料はどこから持ってきたのか。それも今まで考えた事がありませんでした。
続日本紀では708年の元明天皇の時代、質の良い銅鉱山が発見されたため喜びのため元号を「和銅」としました。そのため日本では銅が採掘されていなかったと思っていた。しかし、弥生時代に日本で銅鐸を生産していました事を考えますと、国産の銅が原料だったと考えても不思議ではありません。
銅鐸と銅鏡。共存しなかった事も興味深かったです。銅鏡の登場し広がるにつれ銅鐸は廃れました。農耕がはじまった頃は平等社会だったと言われています。その頃は祭祀用の銅鐸でした。その後、少しづつ生産性が上がりますと余剰作物がでてきます。集落が大きくなり富が生まれた結果、為政者が登場します。為政者の権威の象徴として銅鏡を配布が使われるようになりました。それと同時に銅鐸が廃れていきました。銅鐸、銅鏡、当時の日本の勢力図。古代戦国時代のように思えました。
博物館を出ました後、そばにあります宮山二号墳も見ました。古代にタイムスリップした感じでした。