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真宗木辺派・錦織寺。滋賀県野洲市
12月11日、野洲市にあります真宗木辺派錦織寺へ行きました。
浄土真宗には浄土真宗本願寺派(西本願寺)、真宗大谷派(東本願寺)、真宗十派があります。錦織寺は、真宗十派のひとつ、木辺派の本山です。
このお寺の「錦織」は「きんしょく」と読みます。地名ですと「にしきおり」や「にしこおり」などの読み方があります。
そして有名人でテニスの錦織(にしこり)選手がいますので、「錦織」という漢字には様々な読み方がありますね。
錦織寺は、858年、3代目天台座主・慈覚大師(円仁)が比叡山から毘沙門天像を、この地に安置し天安堂の建立した事がはじまりです。この時の年号が天安のため天安堂となづけられました。
1235年、親鸞がこの地に滞在しました。親鸞は佐渡へ流罪になりましたが、その後、罪を解かれ、関東で20年ほど過ごし、そして京都へ戻る途中に滞在しました。
これをきっかけに浄土真宗のお寺になりました。ただ1569年から1726年まで浄土宗と浄土真宗の兼学の時期がありました。
ただ、それ以前はどういうお寺だったのかは錦織寺の年表には書いていませんでした。
「錦織」の寺号は1238年に四条天皇から賜った物だと言われています。四条天皇に錦の織物を献上したためだ。
ところで四条天皇は11歳の時、宮中の女官達にいたずらするため罠を仕掛けましたが、自分がその罠にひっかかり、頭部を強打し、そのまま崩御された天皇です。現在でいう小学生だった天皇です。そのため本当に自分の意思で「錦織」という寺号を与えたのか、それとも周囲が天皇の命という事にしたのか。そんな突っ込みができます。
境内を散策しました。御影堂、阿弥陀堂、天安堂があります。御影堂、阿弥陀堂は江戸時代に再建されたものです。さらっと書いていますが、江戸時代から建物があるのはすごいですね。天安堂には毘沙門天像がありますが、中は拝見することができません。
お寺のパンフレットには親鸞の田植歌が掲載されていた。親鸞が関東で布教活動を行う際、貧しく田植えなどに忙しい農民に対して上から目線で「教えてやる」では相手にされません。そのため農民たちと一緒になって田植えを手伝いながら布教活動を行いました。田植歌も布教方法のひとつでした。
ところで滋賀県の守山周辺は堅田周辺には浄土真宗のお寺が多いです。
浄土真宗・中興の祖・蓮如が京都の大谷を追われた際、守山の金森へ逃げ、そして堅田へ移った後、北陸に移動しました。その影響が大きいです。
しかし、錦織寺を見ますと親鸞が帰京する際に辿った所に、浄土真宗のお寺が点在しているかもしれないですね。