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対秦包囲網。2200年前の話

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 米中対立や対中包囲網について連日のようにニュースで流れています。
 国際情勢の素人の私なので、今後どうなっていくのか難しい事はわかりません。そこで今回は2200年前の対秦包囲網の話を書きます。

 秦の始皇帝が中国大陸を統一する前は7ヶ国に分かれていました。秦、韓、趙、魏、燕、楚、斉です。戦国時代です。
 日本の戦国時代の名称は、2200年以上前の中国の戦国時代に似ているため名づけられました。

 秦は紀元前359年の商鞅(秦の宰相)の変法により改革が行われ、その後も改革が行われました。それに伴い秦の力が増強していきました。
 そんな秦を封じ込めようと韓、趙、魏、燕、楚、斉の6ヶ国が同盟を結び、秦の圧力に対抗しようとしました。合従です。

 余談ですがキングダムでは李牧が合従軍を率いて函谷関の戦いが行われる場面があります。しかし史実では李牧の存在は確認されていません。

 6ヶ国連合の合従に対して、分断を図ろうと考えた秦は個別に6ヶ国と同盟を結びました。連衡です。
 それにより合従は崩されてしまいました。この事により秦は弱小国から攻めていき、中華統一を行いました。紀元前221年の事です。
 秦の王・趙政は王の上に立つ存在として「皇帝」という言葉ができました。最初の皇帝のため「秦の始皇帝」と呼ばれるようになりました。

 合従と連衡。現在の国際社会を見ていても似たような話はありますね。

 驚くべき事は秦が都を置いていた咸陽(西安の隣)は北京や上海から飛行機で2時間以上の距離にあります。
 広大な中国大陸を電話や車もなかった時代に、よく指揮命令系統が確立された上、広大な地域を統治できたと感心するばかりです。

 合従と連衡。各国同士の連絡が必要になります。秦の始皇帝が漢字を統一する前は、各国で使われていました漢字はバラバラでした。
 そして言葉もバラバラでした。秦を滅ぼした劉邦と項羽が覇権争いを行い、終盤に、劉邦が項羽軍を囲んで楚の歌を合唱した話があります。四面楚歌です。劉邦も項羽も楚の出身だったため、楚の言葉で歌った歌だったため、項羽軍の戦意を喪失させたかもしれません。
 ただ、実際に大人数で楚の歌を合唱しても、大量の拡声器がない限り、人の声だけでは遠くまで響かないという突っ込みは入れたくなります。

 そして現在の中国でも、上海人は上海語、広東人は広東語を日常語として使っています。共通語の普通語(通称・北京語)がないと、意思疎通ができないくらい別言語です。そのため、どうやって意思疎通を行っていたのかも興味津々ですね。

 中国の戦国時代に出てきた言葉があります。遠交近攻です。遠い国と手を結び、近い国を攻めるという外交手段です。挟み撃ちです。
 日英同盟が良い例です。大英帝国がボーア戦争で疲弊し、力が落ちてきた時期でしたが、ロシアとの覇権争いに対抗する必要がありました。日本もロシアの脅威にさらされていました。そこで両者の利害の一致で日英同盟が結ばれました。ロシアを挟み撃ちです。

 中国の戦国時代を見ていますと、現在の国際情勢に似ている気がしますね。

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