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織田信長の安土城跡。滋賀県近江八幡市安土町

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 以前、安土へ行った時の話を書きます。
 安土には織田信長が築城した安土城跡があります。ただ、本能寺の変の後、安土城も火災に遭い、現在では石垣のみが残っています。現在、安土城跡は摠見寺が管理しています。
 
 安土城跡は山の上にありますため404段の石段を登る必要があります。
 入口付近に伝・豊臣秀吉邸跡があります。少し上には伝・徳川家康邸跡があります。城下町のすぐ近くです。
 その一方で信長の側近の森蘭丸は天主の近くに邸宅があったと伝わっています。
 天主の近くかどうかの違いは、何なのだろうかと色々、想像してしまいそうですね。
 余談ですが織田信長と森蘭丸は男性同士の恋愛関係という話がありますが、それを証拠づける史料は見つかっていないため、現代でも噂の域は超えていません。

 階段を登っていきますと、いくつもの石仏を見る事ができます。
 石仏は石に彫られた仏像です。安土城築城の際、石が確保できないため近くのお寺の石仏などを転用しています。
 転用石とも言われ、京都府福知山市にあります福知山城跡には墓石などを石垣用に転用した転用石を見る事ができます。
 「なんてバチあたりな」という感じですが、中世の日本では、意外と神仏を信仰していたわけでもなかったため、バチあたりという感覚が希薄だったようです。

 急斜面の階段を登っていきますと息が切れます。重機のない時代に築城をした当時の人達はどんな身体能力を持っていたのか。驚きながら登りました。

 本丸跡までたどり着きました。礎石が並んでいるだけの風景でした。
 本丸跡は、天皇の行幸の際、天皇をもてなす場所として建設されたようですが、実際には使われませんでした。
 余談ですが、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では、織田信長が正親町天皇に譲位を迫ったような描き方をしていました。
 ここで疑問が出てきます。当時の天皇家の家長は治点の君(筆頭格の上皇)でした。ただ応仁の乱以降、朝廷は収入が激減し、御所の修理もできないぐらいの財政状況に陥りました。そのため天皇が即位したくても即位式を行うだけの費用が賄えないため、天皇が息子に譲位したても経済的にできない状況でした。正親町天皇の父・後奈良天皇、祖父の後柏原天皇も資金難のため譲位ができませんでした。そのため正親町天皇にとっては譲位ができる提案はありがたい話になります。この辺りは事実としてどうだったのかは、わかりませんが、興味深い所です。

 いよいよ天主です。ここも礎石を残すのみです。33mの高さのある建物だったため当時の宣教師・ルイス・フロイスが「ヨーロッパにもこんな建物はない」と驚いたと言われています。

 天主からは周囲の景色を見る事ができます。
 琵琶湖側を見ますと水田が見えました。織田信長の時代は中の湖(琵琶湖の内湖)でしたが、1942年の干拓事業によって埋め立てられ水田になっています。
 安土城の北側は中の湖。南側に城下町があった構図です。天主から安土の周囲を見渡した際、「天下」という気分になったかもしれないですね。

 そして安土城郭内には織田信長の公墓があります。安土城が火災に遭った後、豊臣秀吉が亡き主君・信長の霊を祀るために建てた物です。

 天主跡から歩いて下山していきますと三重塔が見えます。安土城築城の際、織田信長が菩提寺として景山摠見寺が建設されました。
 しかし、本堂は火災に遭い、三重塔と山門が残っています。それでも400年以上前の安土時代の建物が残っている事は凄い事ですね。

 一昔前までは織田信長といえば伝統や権威を破壊する上、神仏も畏れぬ人物で革新的な事を行ってきたと言われてきました。
 しかし近年になり、色々な史料が見つかるにつれ、伝統や権威を重んじていた事、そんなに革新的でなかった事がわかってきました。
 本当の織田信長の人物像。タイムマシンに乗ってみてみたいですね。

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