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日本に抹茶を伝えたのは栄西。

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 最近、抹茶を飲んでいます。茶道の心得は全くありません。茶道に関するウンチクを書く事ができません。

 そこで今日は茶道とは違った抹茶の話を書きます。
 抹茶を日本に伝えたのは栄西です。平安時代後期から鎌倉時代初期の人物で臨済宗の開祖です。
 栄西は2回、中国大陸へ留学した人物です。日宋貿易の船乗りや商人ならともかく、一般人が今のように簡単に海外へ行ける時代ではありませんでした。
 そのため南宋への留学生は特別な存在でした。しかも栄西は2回も留学していますので、それだけでも驚きです。
 余談ですが、学校の歴史では臨済宗は鎌倉時代の新興仏教と教えられますが、実際の栄西は旧勢力の仏教側で禅宗を用いて改革を行おうとした改革者のようです。

 ところで当時の南宋では皇帝献上用のお茶はプーアール茶のような固形茶でした。そして商人などの庶民(それなりにお金がある人)は抹茶を飲んでいました。

 宋の時代までは留学生は皇帝に謁見していました。皇帝が飲むお茶も留学生に振舞われたと思われます。
 南宋になりますと皇帝との謁見がなくなりました。栄西は南宋時代に留学しましたため、皇帝と謁見する事はありませんでした。皇帝が飲むような固形茶を飲む機会がなかったと思われます。そのため栄西が中国大陸で出会ったお茶は庶民の間で飲まれていました抹茶でした。

 栄西は南宋から茶の種を持ち帰りました。帰国後、「喫茶養生記」を書くなどしてお茶の文化の普及に努めました。
 持ち帰った種ですが、華厳宗の僧侶・明恵にプレゼントしました。明恵は京都市・高雄にあります高山寺にお茶の種をまきました。これが高山寺が主張しています日本最古の茶園です。

 さて南宋で抹茶に出会った栄西ですが、ここで疑問がでてきます。
 本当に中国大陸の庶民は抹茶を飲んでいたのかという事です。コロナ以前のインバンドの際、多くの中国人観光客が京都へ訪れていました。宇治茶を販売しているお店の人に聞いた話では「中国人の場合、抹茶は好き嫌いが大きく分かれる」でした。

 その一方で上海や杭州などの地域では緑茶文化です。特に杭州の龍井茶は高級茶葉として扱われています。南宋の首都は臨安です。今の杭州になります。

 南宋時代と現代中国が同じとは言えませんので、私の勝手な想像になりますが、もしかしましたら南宋時代、上海付近の緑茶文化を日本に伝えたのかもしれないですね。

 写真は2021年11月に高山寺へ行った時に撮影しました。

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