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長浜鉄道スクエア。フランス・パリへ向かって出発進行! 滋賀県長浜市
以前、長浜市鉄道スクエアへ行った時の話を書きます。
建物は旧・長浜駅舎を使っています。日本に現存する最古の駅舎です。それだけでも「おっ!」という気持ちになりました。
展示の受け売りになりますが、北陸線の歴史を簡単に紹介します。
明治初期、国家事業として官営鉄道の敷設が行われました。7番目の官営鉄道として北陸線(長浜~敦賀間)の建設がはじまり、1882年(明治15年)に開通しました。
明治政府が北陸線を重要視したのは太平洋側と日本海側を結ぶ重要路線と位置づけていたためです。
関西から日本海へ抜ける場合、北陸線を使うという発想は不思議には思いません。現在でも敦賀や舞鶴から北海道へ行くフェリーの定期便があるからです。
しかし、当時は首都圏から日本海へ抜ける場合も北陸線を使うという発想でしたので「おやっ!」と思いますね。今のように上越新幹線、金沢新幹線がありますと東京から新潟、東京から長野経由で富山へ抜けることができると思いがちですが、当時は山岳地帯を抜ける鉄道の敷設や、長いトンネルを掘る技術はありませんでした。
そのため日本海へ抜けるためには北陸線を使うという発想でした。
ところで、長浜~敦賀間が開通しても大津から長浜までは鉄道が走っていなかったため、琵琶湖を使った鉄道連絡船が就航し、7年間、運航されました。日本初の鉄道連絡線です。それも蒸気船です。どうやって蒸気船を琵琶湖まで運んだのか。琵琶湖に造船所があったのか。色々、想像できますね。
スクエア館内には当時を再現したものがありました。駅長室、一等車の待合室がありました。
一等車を利用するのは高級官僚や富裕層になりますので、その待合室は今でいう空港のファーストクラス専用のラウンジという所です。
さて、東海道本線が開通し北陸線と結ばれますと、今度は敦賀からウラジオストクまで国際船舶便ができました。
東京から鉄道で敦賀まで行き、国際船舶便でウラジオストク、そこからシベリア鉄道を乗り継いでヨーロッパへ行くことができるようになりました。
しかも一枚の切符で東京からパリまで行けるようになりましたのは凄いですね。そのため欧亜国際鉄道と呼ばれていました。
長い前置きのおかげで、ブログの題名「パリへ向かって出発進行!」が説明できました。そしてヨーロッパへの玄関口だった敦賀です。
鶴賀については、鶴賀へ行った時に取り上げます。
第二次世界大戦中、リトアニアの日本領事館領事代理だった杉原千畝が、ナチスドイツの迫害を逃れたユダヤ人に命のビザを発行しました。
杉原千畝と「命のビザ」 ~東洋のシンドラーと呼ばれた外交官~(国立公文書館:アジア歴史資料館)
彼らはシベリア鉄道に乗ってウラジオストクへ向かい、そこから鶴賀に到着しました。東京や大阪へ向かう人たちは北陸線で長浜を通ったと考えられます。北陸線は命を運んだ列車とも言えますね。