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日本最初の交流電化区間は北陸線。長浜市鉄道スクエア

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 昨日に引き続き、以前、長浜市鉄道スクエアへ行った時の話を書きます。

 展示の受け売りになりますが、日本最初の交流電化区間は北陸線でした。田村~敦賀までの区間が交流電化されました。米原から田村までは蒸気機関車で牽引していました。写真の赤い電気機関車はED70形で交流区間を走らせるために造られた物です。
 それまでは電車の架線は直流電流が流れていましたが、交流の方が設備投資が少なくて済むという理由で交流になったそうです。
 ただ私には電気の知識がありませんので、受け売りしか書けません。そして、なぜ北陸線が最初の交流電化の対象路線になったのかは展示の説明にありませんでした。そのため紹介できません。

 ところが時代を経るにつれ交流架線が問題になりました。JR西日本が誇る「新快速」が直流路線しか走れないため、北陸本線に入ることができませんでした。
 1991年に滋賀県や長浜市が負担する形で米原・長浜間を直流化を行い、新快速を長浜まで行けるようにしました。その結果、長浜の人口増加や観光客が増加し町の活性化につながった事から、新快速効果を狙って直流化協議会が設立され、2006年に湖西線と北陸線の長浜~鶴賀間が直流化しました。そのため鶴賀まで新快速が走るようになりました。
 北陸本線・湖西線輸送改善(直流化)計画の概要(滋賀県庁)

 2006年の直流化するまでは近江舞子や長浜まで新快速で行き、そこで乗り換えが発生していました。それが新快速1本で敦賀まで行けるようになり利便性が飛躍的に向上しました。

 2005年、福井方面へ行った時、近江今津まで新快速で行き、そこから先は、古い直流・交流兼用の車両の各駅停車でした。直流・交流の切り替え地点で車内の電気がしばらく消えました。直流・交流の切り替え地点での風物詩でした。
 ただ、特急列車のサンダーバードの車両は新しいため直流・交流の切り替え地点で車内消灯が起こらなかったため、車両の進化も感じました。

 交流区間の直流化という事で、交流は直流に劣るわけではありません。
 新幹線の場合は全線が交流区間になります。用途によって使い分けているようです。
 

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