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聖徳太子ゆかりの達磨寺。奈良県葛城郡王寺町

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 4月16日、臨済宗南禅寺派 片岡山 達磨寺へ行きました。聖徳太子ゆかりのお寺です。

 日本書紀の推古天皇の章にあります聖徳太子と飢人の話に由来します。抜粋した物を紹介します。

 聖徳太子が片岡(王寺町)を訪れた時、飢えている人を見ました。聖徳太子は名を尋ねましたが、その人物は名乗りませんでした。聖徳太子は食べ物を分け与えた上、自分の衣服を脱いで飢えた人に着せました。
 翌日、聖徳太子は使いを出して飢えた人の様子を見に行かせたら、その人は死んでいました。聖徳太子は悲しみ埋葬し塚を建てました。
 さらに数日後、使い者に塚を見に行かせたら、使いが戻ってきて「墓は動いていないけど、中を開けたら屍がなかった。棺桶の上に、たたんだ衣服だけがあった」と報告しました。聖徳太子は、その衣服を使いに取りに行かせた。そして聖徳太子は、その衣服を身にまとった。
 周囲は怪しげに思いながら「聖は聖を知るというが本当だったのか」と言った。

 以上、日本書紀からの抜粋です。

 ところで王寺町は、聖徳太子の本拠地・斑鳩の近くなので、聖徳太子にとって王寺町は庭先みたいな所です。本拠地周辺散策での出来事という感じですね。

 ここから達磨寺の伝承です。伝承では飢えた人は達磨大師だったので、塚の所に達磨寺が建立されました
 達磨大師とはインドの王族出身の僧侶で禅宗の開祖と言われています。晩年、中国に渡り禅宗の布教を行いました。
 ただ、聖徳太子と達磨大師では時代が100年ぐらいズレています上、達磨大師も本当に実在したのか不確かです。そのため本当に聖徳太子が日本で達磨大師と出会ったのかと言いますと否定的になりますが、伝承に対して目くじらを立てる必要はありませんので、突っ込みこはこれぐらいにします。

 長い前置きはこれぐらいにしまして、入口には聖徳太子の愛犬・雪丸がお出迎えしていました。
 境内には松永秀久の墓がありました。戦国時代末期の人物で東大寺を焼き討ちした人物です。達磨寺も焼き討ちにしました。
 その後、松永秀久は筒井順慶に討たれます。信貴山の戦いです。筒井順慶は僧侶だった事もあり、松永秀久を達磨寺に埋葬しました。
 信貴山から南東に降りますと王寺町になりますので、近いお寺に埋葬した形になります。
 余談になりますが松永秀久は2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」で登場しました。俳優・吉田鋼太郎さんが演じていました。

 本堂には文化財が展示されていました。
 室町時代の茶碗や巨大な花瓶などです。鎌倉時代の聖徳太子像、室町時代の千手観音菩薩と達磨坐像。
 達磨寺には3つの遺跡が発見されていますので、遺跡から出土された物も展示していました。

 方丈という建物がありました。建物の知識のない私には「何それ」でした。
 しかし、ボランティアのガイドさんに案内していただきましたので、色々、教えていただきました。
 方丈は臨済宗のお寺にある建物、奈良県には方丈があるお寺は、ほとんどないのは、南都六宗の力が強かったため、鎌倉仏教の臨済宗が入り込めなかった事。正式名称で「達磨寺」を名乗っているのは、他には高崎市の達磨寺ぐらいで、ほとんどない事。
 他にも屋根瓦の色の違いなど見過ごしてしまいそうな事も教えていただきました。

 ここで疑問がでてきます。達磨寺は創建当時の宗派は何だったかです。達磨寺のサイトにも書いていなかったのでわかりませんが、興味津々ですね。

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