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ロシアと交渉した凄腕豪商・高田屋嘉兵衛。神戸市兵庫区
5月5日、兵庫運河近くに江戸時代後期の豪商・高田屋嘉兵衛の本店の地という石碑を見つけました。
高田屋嘉兵衛はゴローニン事件の解決に尽力した豪商です。
高田屋嘉兵衛は淡路島出身で、22歳の時、樽廻船の船乗りになりました。
最初は水夫からです、高田屋嘉兵衛は航海技術の習得が早い、メキメキと頭角をあらわし沖船頭(船長)になりました。翌年には自ら海運業をはじめました。28歳のことです。
すごく突っ走っているのがうかがえますね。
高田屋嘉兵衛は神戸と函館を結ぶ航路を運行しました。
この頃、日本では民間事業者による物流が発達していきました。米の通流だけでなく、各地で産業振興で特産品を生産していた事もありました。
金山、銀山の枯渇のため貿易代金が払えなくなっていたため、茶、木綿、サトウキビなどの国産化も行い、国内だけで経済をまわそうという状態でした。
ところで蝦夷地での漁業に目をつけた高田屋嘉兵衛。蝦夷地開発に乗り出しました。
その頃、大英帝国と帝政ロシアがグレートゲームを行っていました。海洋進出をしたいロシア。それを阻む大英帝国。ロシアが海洋進出を目指して東への進出を行い、ついには極東までやってきました。
ロシアの動きを警戒した幕府から海路乗試御用船頭を任じされ、国後・択捉の航路を開発しました。
1811年、千島周辺を調査していたゴローニン率いるディアナ号が国後までやってきました。その時、ゴローニンは松前藩に逮捕されました。
日本にはロシアが許せない事情がありました。1804年に起こった文化露寇(フヴォストフ事件)でした。ロシアのレザノフが長崎に通商を求めたが幕府に断られました。そして本国には無断で択捉やサハリンの日本人居住区を攻撃しました。幕府にとっては驚愕の事件だったため、蝦夷防衛に神経を尖らせていました。
ロシア側はゴローニンが逮捕されたという事で、ディアナ号の副艦長リコルドが日本船を拿捕しました。拿捕されたのが高田屋嘉兵衛でした。
高田屋嘉兵衛が凄いのは、そこからロシア語を学んだ事です。ロシア語を学ぶことでリコルドとの対話ができるようになりました。
リコルドには文化露寇(フヴォストフ事件)で幕府が激怒していた事などを伝え、幕府に謝罪文を書くように薦めました。
リコルドも、それに従い、幕府に謝罪文を送り、幕府はゴローニンを解放しました。
拿捕されてからロシア語を学び、そしてゴローニン事件を平和裏に解決する。
もし、高田屋嘉兵衛がいなければ、問題がこじれて、日本がロシアに攻められる危険性があったかもしれません。
もちろん、相手も対話ができる人である必要があります。対話ができない人ですと交渉にすらならないです。
それを考慮しても高田屋嘉兵衛は凄い人ですね。