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鯰江城跡。滋賀県東近江市鯰江町

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 6月18日、東近江市を散策しています際、鯰江城跡の前を通りました。
 今は城跡の石碑と公民館前に案内版の看板があるぐらいです。

 簡単に歴史を紹介しますと、鯰江という場所は元々は興福寺の荘園でした。荘官として地元の豪族・鯰江氏が治めていました。
 戦国時代になり鯰江氏は六角氏の傘下に入りました。織田信長が近江平定にやってきました。鯰江氏は六角氏につくか、織田信長につくかで悩んだ末、六角につきました。しかし織田信長には勝てず落城しました。
 以上、案内板の受け売りの要約でした。

 鯰江町住宅案内図がありました。鯰江さんの家が多かったです。鯰江氏の末裔ではないかと思いました。
 集落を散策しました。公民館の側に盛り土がありました。これは鯰江城の土塁跡なのか、それとも後世にできた盛り土なのか。そんな想像をするだけでも城跡調査の気分が味わえますね。

 東近江市の鯰江と大阪の鯰江の関係。
 鯰江城跡にあります説明書きでは、織田信長に敗北した後、鯰江氏は各地に散らばり各大名に仕える事になりました。
 その1人・鯰江定春は豊臣秀吉に仕えました。大坂に土地を与えられました。そのため今の大阪市城東区に鯰江という地名ができたとなっています。
 確かに大阪市城東区に鯰江小学校などの建物の名前があります。ただ、現在では町名という形では残っていませんが。

 ただ、大阪市役所のサイトを見ますと、諸説あるようです。
 かつて鯰江川があり、網を入れると鯰が大量に採れた事から「鯰の川」という意味で「鯰江」と名づけられた説。大坂冬の陣の時の今福の合戦で、川が戦死者の血で染まった事から生血(なまじ)川と呼ばれ、それが訛って鯰江になった説。東近江市の鯰江の由来説です。
 大阪市城東区:区内北東部 (…>区のプロフィール>地名の由来)(大阪市城東区役所のサイト)

 ところでネットで検索しましたら、次のサイトがでてきました。
 鯰江町(なまずえちょう)の雑煮には信長のせいで「餅」が入っていない – 京都のお墨付き!
 織田信長の平定の名残りが令和になっても習慣として残っている。歴史を感じますね。

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