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商業都市として栄えた松坂。三重県松阪市

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 7月24日、松阪へ行きました。今も残ります松坂商人の屋敷が何軒かあります。
 現在では「松阪」という表記ですが、明治中頃までは「松坂」という表記なので「松坂」と書きます。

 ところで江戸時代、三大商人といえば大坂商人、近江商人、松坂商人でした。松坂が商業の町と栄えた理由ですが、いくつかあります。

 1つは伊勢神宮の近くだったため各地の情報が集まりやすかった事です。
 今のようにインターネットはもちろんの事、テレビもラジオも電信・電話もありません。
 手紙や外部からやってきた人からの情報提供しかありませんでした。限られた方法でしか情報収集を行う事ができませんでした。
 松坂はちょうど、伊勢神宮参拝の通り道でした。全国各地から著名人から庶民まで参拝していました。松坂の商人達は、著名人がやってくると、こぞって家に招いて、おもてなしをしました。その見返りに情報収集していました。
 松阪商人は江戸に支店を置いていました。江戸から手紙という形で情報が伝えられていました。もちろん郵便制度がなかった時代です。伊勢神宮へ参拝する旅人に手紙を渡して、情報のやりとりを行っていました。
 見ず知らずの旅人に手紙を託して、きちんと届けられる。驚きですね。

 2つ目は紀州藩の飛び地で武士が少なかったため、自由な気風の町でした。
 なぜ武士が少なかったのか。そして、なぜ武士が少ないと自由な気風なのか。歴史の素人の私にはわかりませんが、資料館などに書かれている事を受け売りしますと、そういう事になります。受け売りがバレバレですね。素人の勝手な推測で恐縮ですが、規制が少なく自由な商売が行えたので発展した可能性は考えられますね。

 3つ目は多角化しなかった事が挙げられるようです。地道で堅実な商売を行っていました。
 多角化しなかった事が繁栄を築いた理由になるのか。ここで気鋭の経営学者でしたら明快に答えていただけると思いますが、経営学者とは遠く及ばない私なので「なぜか、わかりません」としか答えられません。

 まずは三井や三越の原型の越後屋を創業した三井高利の生家・三井発祥の地へ行きました。ただ非公開のため門だけ撮影しました。
 その近くには旧・小津清左衛門家があります。紙問屋で栄えた商人です。今の小津産業株式会社さんの前身です。

 旧長谷川治郎兵衛家も中が公開されています。木綿問屋で財をなした商人です。
 万両箱がある豪商でした。千両箱は時代劇に出てきますが、万両箱となりますと聞かないですね。億万長者ではなく、もう1つ上の兆億長者(私の勝手な造語です)といった感じですね。
 「うだつが上がらない」という言葉があります。旧長谷川治郎兵衛家は、うだつが上がった屋根があります。
 元々、うだつとは隣接している家の境界の所で、屋根を一段高くして壁にしている物です。うだつを上げるには費用がかかりましたため豪商の家しかできませんでした。そこから意味が転じて「うだつが上がらない」という意味が、現在の意味になりました。

 豪商だからさぞ贅沢三昧と思いきや、倹約な生活をしていました。
 ただ倹約といってもケチではなく必要な投資は行いました。情報収集のため著名人と交流するためには、歌、茶道などの教養は必要でした。一見しますと優雅に見えますが、実は商売繁盛のための自己投資。商売のためには教養も身につけないといけない。庶民の気楽さはないようですね。
 頑張ってお金を稼いでも、紀州藩は御用金を商人に命じて、お金を上納させていました。折角、商人が稼いだお金も、倹約や稼ぐという努力もしない武士階級にもっていかれる。かわいそうな気がしますね。

 そして豪商のまち松阪 観光交流センターへ行きました。
 蒲生氏郷のグッズが売っていました。近江・日野出身の蒲生氏郷は近江商人を松阪に呼び寄せて商業都市にしました。松阪の功労者ですね。
 そして豪商の展示などがありました。展示を見ていますと時間が経つのを忘れてしまうぐらいでした。

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