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松阪の学者・本居宣長。三重県松阪市

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 7月24日、松阪へ行った時の話です。
 江戸時代の国学者・本居宣長は松阪生まれで松阪在住の国学者でした。

 松阪市のマンホールの絵柄は駅鈴(エキレイ)です。そして松阪駅のロータリーには大きい駅鈴があります。
 本居宣長は気分転換の際、鈴の音を聞いていました。特に駅鈴が好みだったようです。
 駅鈴は律令時代、駅場を利用するために持っていました。駅場利用券です。

 ところで松阪は伊勢神宮参拝の通り道で、参拝者で賑わっていました。
 そんな中、少年時代の本居宣長は「なんで伊勢神宮に参拝するのだろう」と疑問に思っていたそうです。その疑問が日本人とは何か、古代日本への興味につながったと言われている。

 松阪は商業の町。本居宣長は商家の家に生まれましたが、商売には向いていないため、京都へ医学を学びに行きました。そして松阪に戻り医者として開業しました。

 転機が訪れたのは賀茂真淵との出会いでした。
 賀茂真淵が伊勢神宮に参拝するという情報を得た本居宣長。
 旅籠・新上屋に宿泊していた賀茂真淵に飛び込みで面会を申し込みました。賀茂真淵はびっくりだったと思われますが、それでも快く面会を受け入れました。新上屋があった場所には記念碑があります。

 この時代、古事記は誰も読めない状態でした。古事記は万葉仮名で書かれていますが誰も読めない状態でした。
 現代、私達が高校で古文を習った時、江戸時代の文章も、奈良時代の文章も同じように古文として扱われていますが、江戸時代と奈良時代の文章は異なります。
 実際、古事記が編纂されたのは712年。本居宣長が解読するのは1700年代後半。1000年以上経過しています。そのため江戸時代の人から見ると、奈良時代の文章は古文です。しかも万葉仮名なので、文章の解読の前に、漢字と音との関係も解読する必要がありました。

 本居宣長が古事記を読みたいと言うと、賀茂真淵は「まずは万葉仮名の勉強をしなさい」と助言しました。
 万葉集は万葉仮名で書かれていますので、まずは万葉仮名の勉強をしなさいという事です。
 新上屋での面会。この部分を見ますと「飛び込みでやってきた本居宣長に対して、快く応じた賀茂真淵は、なんて心の広い人だ」と思いますね。

 それから本居宣長は疑問点などがあると、賀茂真淵に手紙を書き、それを賀茂真淵が添削して返していました。まるで通信教育ですね。
 そして本居宣長は賀茂真淵に論文を送りました。万葉集重載歌及巻次第です。

 ただ、その内容は賀茂真淵の間違いを指摘した内容があったため、賀茂真淵は激怒しました。賀茂真淵にとっては「俺が手取り足取り添削しているのに、何を偉そうに俺に間違いの指摘しているのだ。恩を仇で返すのか」となり破門寸前になりました。その後、本居宣長が詫びを入れた事で、破門は免れました。
 賀茂真淵と本居宣長のどちらが正しいのか。国学の素人どころか知識のない私。しかも万葉集重載歌及巻次第を読んだ事がないため、どちらが正しいのか判定することはとてもできません。難しい事は専門家に任せることにします。

 本居宣長の住宅があった場所へ行きました。しかし、看板があるのみで、建物は移築されています。
 松阪大火災が原因でした。本居宣長の自宅は火災を免れました。本居宣長の住宅を火災から守るため、1909年に松阪城跡に移築されました。

 松阪城跡地には移築された本居宣長の住宅と、本居宣長記念館があります。

 記念館に入りますと、大日本地図がありました。本居宣長が日本地図に地名を書き込んでいます。
 この時は、伊能忠敬が測量する100年近く前なので、正確な日本地図はありません。ただ、この頃から本居宣長は日本に対して興味を持っていたように思えたりします。
 本居宣長が古事記の解読書「古事記伝」の制作に35年かけた事を知ると、本居宣長の凄さを感じました。もちろん本業は医者なので、医者として生活費をしっかりと稼ぐ必要もありました。
 史料の展示もありましたが、古文はもちろん崩し字も読めない私なので、どんな内容なのかはわかりませんでした。

 本居宣長が解読した古事記。国学の系譜、本居宣長が後世に与えた影響を紹介できれば良いのですが、私の勉強不足のため紹介できません。
 紹介できるだけの知識が見つけば、その時には紹介していきたいです。

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