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東海道50番目の宿場町・水口宿。滋賀県甲賀市
10月22日、甲賀市水口へ行きました。水口は「みなくち」と読みます。
東海道50番目の宿場町で、NHKの番組「ブラタモリ」でも紹介されました所です。
水口は、江戸時代に東海道が整備される前から京都と伊勢を結ぶ街道の交通の要所でした。そのため集落がありました。
この地域には突出した権力者はいませんでした。甲賀衆と呼ばれる豪族達による統治が行われていました。
大きく動いたのは豊臣秀吉の時代です。1585年、豊臣秀吉の重臣・中村一氏によって築城されました。
古城山に水口岡山城ができ、城下町になりました。当時、山の名前が「岡」山だったため水口岡山城と呼ばれるようになりました。
実際、古城山に登りますと周囲が見渡せてます。交通の要所に加え、近江を見渡せる、軍事拠点として価値が高かったため、中村一氏をはじめ秀吉の五奉行を務めた増田長盛、長束正家が城主を務めました。
関が原の合戦では長束正家が西軍についたため、合戦後、長束正家は自害。城は取り潰されることになりました。
そして江戸時代になると幕府直轄地になりました。交通の要所をがっちりと固めるためです。そして東海道が整備されると宿場町に指定されました。
徳川家光が将軍の時代、将軍の水口での宿泊所として、水口城が築城されました。水口岡山城と違い、山城ではありませんでした。
この築城には茶人で文化人だった近江出身の小堀遠州が作事奉行として関わっていました。
ただ水口城は徳川家光が一回だけ宿泊しただけで、あとは利用される事はありませんでした。
1682年、加藤明友が入城し水口藩が成立しました。明治まで水口藩が続きました。
明治維新後、城は壊されましたが、宿場町の雰囲気は残っています。
長い前置きが終わりました所で、本題の水口散策の話を書きます。
まずは水口歴史民俗資料館と水口城資料館 水口城跡を見学しました。
そして宿場町の散策です。西側から散策をはじめました。武家屋敷を見ますと江戸時代にタイムスリップという気分になります。
近代的な教会がありました。近江八幡を拠点に活躍しましたアメリカ人の設計技師のヴォーリズの事務所が手がけた協会です。
近江の設計事務所が近江の地で教会を建築。まさに近江を感じさせます。
浮世絵がありました。歌川広重の東海道53次の絵のひとつで、水口宿の特産・かんぴょうの絵です。
かんぴょうは、夕顔の実です。1600年に水口岡山城主だった長束正家が、かんぴょうを作らせたと言われています。
関が原の合戦が1600年10月(旧暦ですが)で長束正家は自害するため、関が原の合戦前の話ですね。
踏み切りで「カンカン」と音が鳴りました。ガチャコン(近江鉄道の愛称)を写真に収める事もできました。
踏み切りを渡ってすぐにブラタモリでも登場しました三筋の分かれ道がありました。
のどかな雰囲気がしますが、この近くを走っています国号1号線は交通の大動脈。多くの自動車やトラックが行き交っています。
現代と江戸時代が交差した場所だと思いました。