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タヌキの里・信楽と信楽焼き。滋賀県甲賀市信楽町

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 11月12日、信楽へ行きました。
 信楽高原鉄道の信楽駅前には巨大なタヌキの置物があります上、街中を散策しますと、多くのタヌキの置物がお出迎えしてくれます。
 ところで信楽焼きの代名詞になっていますタヌキの置物ですが、なぜ、タヌキの置物なのか。
 タヌキの話に入る前に、信楽焼と粘土の話を紹介します。

 信楽で焼き物産業ができたのは良質の粘土が採取できたためです。その粘土は琵琶湖の恵みです。
 今の地図では信楽の地は琵琶湖よりも標高が高い上、琵琶湖から離れています。
 しかし、人類が登場する遥か昔は、琵琶湖は今よりも南にありました。伊賀辺りから北へ移動していきました。
 信楽周辺に琵琶湖があった時代、当時の琵琶湖の湖底に堆積した粘土層が、のちの時代に隆起し、採掘可能になりました。
 電子展示 信楽焼を支える粘土と長石の鉱山(甲賀市役所のサイト)

 信楽伝統産業会館に入りました。
 展示資料の中に14世紀(鎌倉時代)の甕(かめ)が展示されていました。信楽焼きの歴史は古く鎌倉時代までさかのぼります。
 信楽焼きが注目されたのは室町時代からです。茶の文化が発展し、茶器として信楽焼きが使われるようになりました。信楽焼きと「わび、さび」がピッタシだったようです。
 信楽焼き。思わぬ所でも使われています。1970年の大阪万博の太陽の塔の裏の顔です。真っ黒の顔は信楽焼きです。時代と共に進化している信楽焼きです。

 信楽焼きのウンチクを書きますと詳しそうに思われそうですが、信楽焼きや陶芸に関する造詣がゼロの私です。そのため信楽伝統産業会館の展示資料の受け売りになりました。

 信楽を散策しますと、あちらこちらに窯元があります。さすが陶芸の街といった感じです。
 ろくろ坂を登っていきますと、登り窯があるのを見つけました。陶芸に関する知識のない私でも、登り窯を見ますと「陶芸の町に来た」という気分になりました。

 ところでタヌキの置物ですが、いつ作られるようになったのかは諸説あるようです。
 信楽焼のタヌキの置物が有名になったのは昭和26年(1951年)です。
 昭和天皇が信楽を行幸された際、タヌキの置物が日の丸の小旗を振ってお出迎えしました。
 その際、昭和天皇が感激し「をさなき日 あつめしからになつかしも 信楽焼の狸をみれば」という和歌を詠まれました。
 信楽の人達が昭和天皇が幼い頃に信楽焼きのタヌキを集めていた事を知っていたかどうかはわかりません。偶然だった可能性もあります。
 信楽焼きのタヌキに関する和歌が新聞報道されたため、全国的にタヌキの置物が有名になりました。

 余談になりますが、皇居にタヌキが住んでいます。
 生物学者でもあります上皇陛下は、皇居に生息しているタヌキに関する論文をお書きになられています。
 皇居におけるタヌキの食性とその季節変動(宮内庁のサイト)
 皇居におけるタヌキの果実採食の長期変動(宮内庁のサイト)

 上皇陛下とタヌキが笑顔で並んでいます姿を想像してしまいそうですね。

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