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蒲生氏郷の出身地・日野。滋賀県蒲生郡日野町

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 11月26日、蒲生氏郷の出身地・日野へ行きました。
 東京都に新撰組のふるさと・日野市がありますが、今回、行きましたのは戦国武将・蒲生氏郷の出身地の日野町です。
 そして近江商人の1つであります日野商人がいた地です。

 蒲生氏郷。以前、ブログ「蒲生氏郷が礎を築いた松阪。三重県松阪市」で紹介しましたが、日野の豪族の子として生まれました。蒲生家は六角氏の家臣でした。
 六角氏が織田信長に滅ぼされると、父親の蒲生賢秀は息子の氏郷を人質に差し出しました。これが運命の出会いでした。
 蒲生氏郷の才覚を見抜いた織田信長は、蒲生氏郷の事を大変気に入りました。氏郷が13歳の時です。
 14歳の時、伊勢大河内城の戦で大きな手柄を上げました。ここで「ちょっと待て!!! 14歳であげる大きな手柄って何やねん!!!」となりますね。
 どんな手柄なのか調べてみましたが、わかりませんでした。現代で例えますと中学2年生が軍の指揮官として、敵を打ち破る。とても想像できないですね。
 この手柄によって蒲生氏郷は人質解放。そして織田信長の娘と結婚しました。織田信長の寵愛ぶりがうかがえますね。

 ここでも14歳で結婚。現代の感覚では考えられないですね。
 シェークスピアの小説「ロミオとジュリエット」も、15歳のロミオと13歳のジュリエットの叶わぬ恋の悲劇の物語ですが、現代の感覚では考えられないですね。

 人質から開放された蒲生氏郷は日野に戻り、織田信長の安土での商業政策を見習って、楽市を設けるなどして日野で商業を奨励しました。10代で日野を商業都市にしようとした。驚きですね。凄過ぎる10代だけに蒲生氏郷は神童か!と思うぐらいですね。

 26歳の時、本能寺の変が起こりました。
 この時、安土城にいた織田家の人達を日野城に避難させて、明智光秀から守りました。

 本能寺の変の後は、豊臣秀吉に仕えました。
 28歳で武功をあげた事で松阪に転封になりました。そして松阪を商業都市としての礎を築きました。
 34歳の時、会津へ転封になりました。仙台には伊達政宗がいます。その伊達政宗をはじめ東北に睨みを利かせるために、蒲生氏郷が抜擢されました。

 武将としても優秀、政治家としても優秀ですが、文化人としても優秀でした。千利休の高弟として認められるぐらいでした。
 そして蒲生氏郷はキリシタン大名でもありました。洗礼名はレオです。
 そんな蒲生氏郷ですが、若くして病気で亡くなりました。40歳です。医学が発達していない時代なので、この年齢で亡くなるのは不思議ではないですが、今の感覚で見ますと短命ですね。

 長い前置きは終わりまして、日野の散策の話を書きます。
 蒲生氏郷の出身地であります上、地元の英雄のため銅像が建っていました。逆光だったので綺麗に撮れなかったのが残念です。
 マンホールの絵柄は日野商人でした。日野商人の街を表現していますね。
 近江鉄道の日野駅には、日野商人の街という事で、日野商人の絵がありました。駅の近くのお店のシャッターには蒲生氏郷の絵がありました。イケメンですね。
 伝・若松の森跡がありました。会津若松の地名ですが、元々の地名は会津黒川でした。蒲生氏郷が幼少の頃に遊んだ若松の森にちなんで、会津若松という地名に変わりました。

 歴史の素人の私なので、当時の情景を思い浮かべながら蒲生氏郷の気持ちになって散策という事はできませんでした。
 それでも散策する事で歴史を垣間見る事ができました。

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