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近江日野商人館。滋賀県蒲生郡日野町

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 11月26日、近江商人の1つの日野商人の資料館・近江日野商人館へ行きました。

 立派なお屋敷です。それもそのはずで豪商・山中兵右衛門の邸宅を資料館にしたためです。
 質素・倹約を重視し、贅沢をしない近江商人ですが、この邸宅は豪華に建築されています。それには理由があります。
 昭和11年、日本は不況に見舞われました。この時、山中兵右衛門が日野の住民の雇用確保のため、豪華な邸宅の建築を行いました。
 そのため「お助け普請」と言われています。商人の財力で地域の雇用を創出し、経済波及効果によって景気の下支え。凄いとしか言い様がないですね。

 お助け普請は山中兵右衛門の邸宅だけではありません。不景気の時、近江商人は地域経済の活性化のため自宅や寺社の改築を積極的に行いました。
 地域の活性化があるからこそ商売ができる。そんな哲学が近江商人にありますため、不景気になったら、地域貢献として公共投資みたいな事を行っていました。

 中に入りますとお椀がありました。日野椀です。日野商人はお椀の行商からはじまりました。その後、薬の販売も行うようになりました。
 薬の販売といえば富山を思い浮かべますが、日野商人も薬の行商を行っていました。

 日野商人は薬の販売の展示がありました。日野商人の薬販売。それには親孝行の物語があります。
 初代・正野玄三が日野椀の行商していた頃、母親が急病になり看病したものの、一向に良くなりませんでした。
 そこで正野玄三は名医の名護屋丹水に治療を依頼した所、無事、母親が回復しました。35歳だった正野玄三は医学に目覚め、名護屋丹水に弟子入りし医者になりました。
 35歳で商人から医学に志して名医に弟子入り。思い切った事をした人物ですね。しかも、医者として優秀だったため、名護屋丹水が亡き後は宮中に出入りする医者になり名声も上げました。
 商人から医者になって名医になる。すごいですね。老齢を迎えた正野玄三は、日野に戻り「万病感応丸」を開発し、日野商人が売り歩きました。。これが日野商人の薬売りの始まりです。
 初代・正野玄三は現在の日野薬品工業株式会社さんの創業者になります。

 日野商人は主に北関東に進出し、作り酒屋や醤油の製造を営んでいます。日野商人の酒造メーカのお酒が展示されていました。
 日野椀の販売相手は農民です。お試しで使ってもらい、気に入れば購入という形をとりました。購入の際の支払いで米で支払われる事が多かったようです。
 北関東の綺麗な水と米。そこから酒造業がはじまりました。ところで近江日野商人館を建築した山中家ですが、山中家は静岡の酒造メーカ・山中兵右衛門商店さんになります。

 資料館を見ていますと鉄砲の展示がありました。
 近江と鉄砲といえば国友の鉄砲が有名ですが、日野でも鉄砲を生産していました。

 日野商人。独自のネットワークを持っていました。日野大当番仲間です。相互扶助の精神で設立されました。
 各地の宿場に日野商人のための施設を作ったりして、道中、日野商人が不自由しない仕組みを作ったりしました。
 単独で商売を行うのではなく、助け合いながら盛り上げていく仕組みでした。この制度は近江商人の中でも、日野商人のみでした。

 近江日野商人館を訪れた事で、日野商人の実像を垣間見ることができました。

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