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天台宗のお寺に親鸞の像。青蓮院門跡。京都市東山区

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 2月26日、京都を散策した際、青蓮院門跡を訪れました。
 「門跡」は皇族や公家が住職を務めるお寺の事です。気品の高いお寺です。庭園が綺麗でした。

 ところで青蓮院は天台宗のお寺ですが境内には親鸞の像があります。
 天台宗のお寺に浄土真宗の親鸞の像がありますのは不思議な感じがしますが、実は不思議でも何でもありません。青蓮院は浄土真宗の聖地だからです。

 今回、親鸞やその周辺の人間関係の視点から文章を書いてみることにしました。

 親鸞は下級貴族の日野家に生まれました。幼い時に両親を亡くし、9歳の時、出家しました。
 ところで日野家ですが、室町時代になりますと、足利将軍の正室を輩出した家系で、8代将軍・足利義政の正室・日野冨子も日野家出身です。
 室町時代に政治に深く関わる日野家ですが、親鸞が生まれた当時はそんな権力のある家系ではありませんでした。

 親鸞の出家の儀式「得度」を行われたのが青蓮院です。この時、得度を執り行ったのが青蓮院の門主だった慈円です。
 慈円は後に天台座主となった上、鎌倉時代の歴史書「愚管抄」を記した人物です。親鸞の出家の地・青蓮院は浄土真宗の聖地ですね。

 親鸞は比叡山で20年間、修行を積みましたが、救いの道が見出せず、比叡山での修行を断念しました。
 その後、法然と出会い、専修念仏の教えを聞いた時、「これだ!」と思った親鸞は、法然の弟子になりました。

 法然は浄土宗の開祖ですが、元々は比叡山で修行した上、しかも聡明だったため「知恵第一の法然房」ともてはやされた人物です。
 しかし、厳しい修行を行って悟りを開くという考え方に疑問を感じ、「南無阿弥陀仏」と唱えると庶民も救われるという専修念仏に本質があると見出しました。
 そして比叡山を降りて、専修念仏を説くようになりました。浄土宗のはじまりです。

 今でいう比叡山のカリスマ僧侶が比叡山を降りて、誰でも救われる道を提示する。そのため専修念仏には民衆から貴族まで飛びつきました。藤原摂関家で太政大臣、関白、摂政を務めた九条兼実も法然に帰依しました。
 九条兼実の弟は、親鸞の得度を行った慈円です。親鸞、慈円、太政大臣の九条兼実、法然。つながっていますね。
 ちなみに慈円は高貴な身分だったから門跡寺院の青蓮院の門主になれたのです。

 比叡山のカリスマ僧侶だった法然が、新しい教団を立ち上げ人気が絶頂になりました。そのため既存の仏教勢力は面白くありませんでした。
 既存の仏教勢力からの弾圧があったり、朝廷に対して浄土宗をやめさせろの声があがりました。

 法然、親鸞を弾圧から守ったのが慈円です。慈円は新興宗教に寛容で理解があったと言われています。
 それ以外にも人間関係を見ますと、慈円の兄(九条兼実)は法然に帰依している上、親鸞は自分が得度した人物になります。慈円が法然、親鸞を庇うのも不思議ではないですね。

 そんな中、事件が起こりました。1207年の承元の法難です。
 法然の弟子が行った集会に、後鳥羽上皇のお気に入りの女官が参加し、しかも出家してしまいました。
 後鳥羽上皇は「俺のお気に入りの女官に手をだしやがって」と激怒し、出家させた弟子を処刑。法然、親鸞は流刑になりました。
 そして浄土宗は解散させられました。4年後、法然は流罪を解かれ京都に戻りました。
 京都に戻ってきた法然を暖かく迎えたのが慈円でした。

 ところで冒頭にも書きましたが慈円は鎌倉時代の歴史書「愚管抄」を書いた人物です。
 鎌倉時代の歴史書には吾妻鏡(東鏡)や玉葉がありますが、愚管抄も鎌倉時代初期を知る重要な史料です。
 昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿13人」も愚管抄があったから、あのようなドラマになったと言っても過言ではありません。そして尾上松也さんが演じていた後鳥羽上皇もハマり役で印象に残りました。
 さて浄土宗を解散に追いやった後鳥羽上皇ですが、承久の乱の後、隠岐へ流罪になりました。隠岐で浄土宗に帰依したという話があります。実際に後鳥羽上皇が隠岐で「南無阿弥陀仏」と唱えて救われたのかどうかは定かではありませんが。
 

 学校の教科書にはバラバラで覚えることでも、ちょっとした人間関係を知るだけでも歴史や仏閣巡りを楽しむ事ができますね。

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