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板垣退助暗殺未遂事件の現場・岐阜公園。岐阜県岐阜市

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 3月11日、岐阜市内にあります岐阜公園へ行きました。
 板垣退助の銅像があるという事で探しました。工事のため板垣退助の銅像が隠れていましたが、見える所から撮影しました。

 この時、なぜ岐阜公園に板垣退助の銅像があるのかと疑問に思いました。
 すぐに謎が解けました。岐阜城に向かうロープウェイの放送で「板垣退助が暴漢に刺される事件が起こりました場所」という紹介がありました。

 岐阜公園は板垣退助が暴漢に刺された際、「板垣死すとも、自由は死せず」の発言があった場所です。
 今は岐阜当時は中教院があった場所で懇親会に参加していた板垣退助が会場から出ようとした時、刺客に襲われました。

 ところで「板垣死すとも、自由は死せず」の発言は実際にはなかったようです。
 板垣退助が刺客にさされた時、近くにいた人が「板垣退助は吾死スルトモ自由ハ死セン」と発言したという証言に由来するようです。
 実際には「吾死スルトモ自由ハ死セン」も本当に発言したかどうかも不明です。

 板垣退助は病院に運ばれました。その時、診察したのは後藤新平です。
 当時、後藤新平は医者でしたが、後に官僚になり台湾総督府の台湾総督府民政局長(のちに民政長官)として台湾近代化に大きく貢献しました。その後、初代・満州鉄道総裁、東京市長、内務大臣を歴任した人物です。
 山本権兵衛内閣の内務大臣時代に関東大震災が発生し、迅速な復興処理を行いました。その際、大規模な道路整備や土地区画整理などの帝都大改造計画を打ち立てました。
 残念ながら後藤新平の案は大幅に縮小された形でしか実行されませんでしたが、帝都復興への道筋をつけた功労者には変わりはありません。

 板垣退助は医師だった後藤新平を見て「医師にするのは惜しい」と言ったようです。そして板垣退助の治療が、後藤新平が政治の道に進むキッカケになったとも言われています。
 高知県出身の板垣退助と岩手県出身の後藤新平が岐阜で出会う。そう考えますと不思議な出会いになりますね。
 

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