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中山道の宿場町・馬籠宿。島崎藤村の故郷。岐阜県中津川市

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 4月9日、中山道の宿場町・馬籠宿へ行きました。

 馬籠は急斜面にあります宿場町です。坂道を登りながらの散策のため、「よくこんな場所に宿場町を作ったなぁ」と思いました。
 中山道は江戸時代、東西を結ぶ大動脈でした。東海道は大きな河川が多いため雨が降ると氾濫が起こり、水位が下がるまで足止めを食らいましたが、中山道の場合は、その心配がないため安全な街道になっていました。
 第14代将軍・徳川家茂の正室として皇女・和宮が江戸に向かう際も中山道を使いました。こんな坂道を籠を背負う人、重たい荷物を運ぶ人がいると考えますと、すごいとしか言いようがないですね。

 馬籠宿の建物ですが明治や大正以降に再建されたものが多いです。明治28年(1895年)と大正4年(1915年)に火災があり、江戸時代からの建物がほとんど消失しました。歴史的な家屋を残す事の難しさを感じます。とはいえ昔ながらの木造建築の景観を見ますと、宿場町の雰囲気が感じられますし、景観保護に取り組む地域の方々の努力を感じさせられます。

 本陣跡には藤村記念館があります。ここが島崎藤村の生家です。
 本陣があった建物も明治28年の火災に遭いましたが、江戸時代に建築された隠居所だけは無事、残っています。

 島崎藤村ですが、恥ずかしながら中学校か高校の国語の授業で島崎藤村の作品に触れた程度の知識しかありません。そこで今更ながら国語の勉強として記念館に入ってみる事にしました。
 記念館に入って初めて知る事ばかりでした。島崎藤村の本名は島崎春樹だった事。代々、馬籠の本陣・庄屋を務める島崎家で生まれた事でした。
 記念館には島崎藤村の原稿、蔵書などが展示されていました。そして島崎藤村は故郷を舞台にした作品を書いているなどの解説がありました。展示物は撮影禁止のため目に焼き付けてきました。
 古今東西の文学を読み漁っていたようで、島崎藤村の蔵書には、漢文はもちろんの事、フランス語で書かれた文学書がありました。

 ところで島崎藤村は大正2年(1913年)から大正5年(1916年)までフランスに渡航していました。この部分だけですと、島崎藤村は語学ができる上、文学を極めるため海外まで渡航した人となります。しかし、実際の所は、なんとスキャンダルから逃れるためでした。
 島崎藤村は妻を亡くしました。その後、家事手伝いにやってきた姪と不義な関係を持ち妊娠させてしまいました。スキャンダルですね。世間に知れたら大変です。
 ほとぼり冷めるまでフランスに逃げたというわけですが、ここから島崎藤村はぶっとんだ行動に出ます。帰国してから、この事件をネタにした小説「新生」を出しました。
 普通の人の想像を超える行動ですね。姪にとっては、たまったものではなく、小説が出版された後、一時期、台湾にいる親戚の所に身を寄せていました。

 私が国語の授業で島崎藤村を習った時は、島崎藤村の出身地は長野県で習いました。
 当時、馬籠は長野県木曽郡山口村でした。その後、2005年の平成大合併の際、山口村は岐阜県中津川市へ越境編入になりましたため、島崎藤村の出身地も岐阜県になりました。
 ただ、この地域の長野県から岐阜県への編入は驚く話でもないようで、古代から南木曽周辺は信濃国か美濃国かで帰属があいまいな所のようです。年代によっては信濃国だったり美濃国だったりします。

 ところでインバウンド再開なのか、中津川駅から馬籠行のバスには大きな荷物を持った外国人観光客が乗っていました。
 江戸時代にタイムスリップしたい外国人が増えているのかなぁと思いました。

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