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中山道の宿場町・妻籠宿。長野県木曽郡南木曽町
4月9日、中山道の宿場町・馬籠宿に続いて妻籠宿も行きました。馬籠宿から妻籠宿まではバスが出ています。バスは馬籠峠を越えて妻籠宿に到着しました。
昔ながらの建物が立ち並び、江戸時代の宿場町にタイムスリップした気分になります。
妻籠の高台には瑠璃山光徳寺があり、桜が綺麗に咲いていました。
今は南木曽博物館になっています本陣跡、脇本陣・奥谷がありました。
本陣跡には当時の本陣を忠実に復元した建物があります。江戸時代、本陣に宿泊できたのは大名をはじめとする要人に限られていました。そのため本陣跡の建物に入りますと大名になった気分になります。
ところで妻籠の本陣は島崎家が代々務めていました。馬籠の本陣も島崎家(島崎藤村の生家)が務めていました。妻籠の本陣の島崎家と、馬籠の本陣の島崎家は親戚同士です。そして島崎藤村の母親の実家が、妻籠の島崎家です。
そして脇本陣・奥谷ですが、こちらの建物は明治10年に建築された建物でヒノキがふんだんに使われています。今の感覚で「ヒノキ造り」は豪華だけですが、当時は違いました。
江戸時代、ヒノキの伐採は禁止されていましたが、明治になり伐採が解禁されたため、ヒノキをふんだんに使った豪華な建物が建築されました。身分を問わずお金さえあればヒノキ造りの邸宅ができるという、お金持ちには画期的な事でした。
江戸時代、南木曽周辺は尾張・徳川家の領地でした。木曽の木材は良質だったため伐採が進みました。そこで尾張藩は資源枯渇を防止するため、ヒノキをはじめ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキの伐採を禁止しました。これら伐採禁止になった5種類の事を「木曽五木」と言います。もし、伐採した事がバレたら厳罰に処せられました。
脇本陣・奥谷に入りました。奥谷は屋号で、代々・林家がつとめていました。
脇本陣・奥谷は、島崎藤村の幼馴染で初恋の人だった「ゆふ」が嫁いだ先でもあります。ゆふは島崎藤村の小説「初恋」のモデルです。そのためか島崎藤村直筆の書がありました。
囲炉裏に人の姿と思いきや、人形でした。囲炉裏でススが発生します。ススを取り除くために床や壁を毎日のように磨いた結果、光沢のある感じになりますとの事です。
脇本陣を見学した後は併設しています資料館の展示を見ました。当時の日用品などの展示、妻籠や南木曽の歴史の展示がありました。
妻籠が交通の要所だった事を知りました。中山道が通っている上、飛騨や伊那への道とも交わる交通の要所で武田信玄も重要視していた要の場所です。
私が南木曽の地理に疎いだけかもしれませんが、交通の要所といえば主要道路網や鉄道網で見てしまいがちなだけに、違った視点で交通網を見る事ができたので新鮮な気分になりました。
脇本陣の古文書が展示されていました。個人的な事で恐縮ですが、私は高校時代、古文は大の苦手でした。そして崩し字が読めません。お宝展示ですが古文書が読めないとなりますと、楽しみが半減してしまいます。
ところで妻籠宿の端には関西電力の発電所があります。「なぜ?」と思いました。
調べてみますと1934年に稼働を始めた発電所です。戦前、各地で小規模な電力会社が乱立しましたが、戦時体制の下、日本発送電という特殊な官民一体型の会社が電力を担う事になりました。
戦後、今の電力会社に再編された際、この発電所は関西電力の所有になりました。ただ、なぜ関西電力になったのか調べてみましたが、わかりませんでした。
ところで関西電力のサイトに大正モダンの電源開発 木曽川水系を行く(PDF)という記事ありました。
妻籠は江戸時代の宿場町だけでなく、島崎藤村、そして日本の電力会社の変遷が垣間見える所ですね。