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六華苑(旧諸戸清六邸)と諸戸水道貯水池遺構。三重県桑名市

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 5月7日、桑名へ行きました。
 桑名には洋館・六華苑(旧諸戸清六邸)があります。二代目・諸戸清六が建築した洋館です。
 「二代目」という冠をつけています。父親と同じ名前だったため、父親と息子を区別するため「初代」、「二代目」という冠をつけています。

 初代・諸戸清六の父親の諸戸清九郎は庄屋でしたが事業に失敗し、莫大な借金を背負いました。1000両とも2000両とも言われています。
 初代・諸戸清六が生まれた時は既に莫大な借金がありました。ところがすごい事が起こります。初代・諸戸清六が18歳で後を継いだ際、米の仲買人などを行いながら、なんと2年で借金を返済しました。
 快進撃はまだまだ続き実業家として財をなしました。財をなした事ですごい事をしますが、その前に六華苑の紹介を書きます。

 六華苑は初代・諸戸清六の四男の2代目・諸戸清六の洋館です。
 2代目・諸戸清六は六華苑を建築する時、コンドルという著名な建築家に依頼しようとしました。
 コンドルはイギリス人の建築家で、明治初期にお雇い外国人として来日しました。工部大学校の教員として人材育成を行う傍ら、鹿鳴館、ニコライ堂などの設計をしました。それだけでなく日本文化にも興味を持ち、日本にハマった人物でもあります。
 第1章 「建築家」誕生~工部大学校で学んだ人々|本の万華鏡 第16回 日本近代建築の夜明け~建築設計競技を中心に~(国立国会図書館)

 さて、明治後半となれば建築界の大御所になっていたコンドル。この時、2代目・諸戸清六は23歳の若者だったため、簡単には建築界の大御所に依頼するのに無理がありました。
 しかし、政財界の大物同士はつながっていました。この時、父親の初代・諸戸清六と大隈重信がつながっていた事。そして大隈重信が岩崎弥太郎とつながっていた事、岩崎弥太郎がコンドルがつながっていた事もあり、コンドルによる設計が実現しました。数珠つなぎで大物がつながっているという感じですね。

 桑名は戦時中、激しい空襲に遭いましたが、六華苑は一部損傷したものの、大部分が無事に残りました。伊勢湾台風にも耐え、現在に至っています。

 洋館の中に入りました。非日常の別世界にやってきた感じでした。子供の日の直後でしたので、子供の日にちなんだ内装がされていました。
 洋館だけでなく和館も併設されています。普通は洋館、和館は別の建物にしますが、六華苑はつながっています。和館はコンドルではなく、工匠棟梁・伊藤末次郎です。日英合作のお屋敷です。

 和館には廊下が2つありました。家族や客人が通る廊下。使用人が通る廊下です。今ですと「明らかな差別」という事で問題になりそうですが、当時は問題にならなかっただけに時代の違いを感じました。
 お庭も拝見しました。生憎の雨でしたので、傘を差しながら散策しました。

 さて初代・諸戸清六の凄さを紹介します。
 明治になり桑名は人口が増えました。しかし、水道の供給がままならず、清潔な水が手に入れられず、伝染病が流行する問題がありました。
 当時の桑名町は水道を敷設しようとしましたが予算が足らず断念しました。初代・諸戸清六は、まずは自分用で水道施設を作った後、桑名の住民のため私財を投じて水道施設を作りました。
 そして桑名の住民に無料で水道を開放しました。すごいですね。その時の貯水池跡(諸戸水道貯水池遺構)が今でも見学する事ができます。
 初代・諸戸清六は近江商人ではありませんが、三方よしの「世間よし」の精神に通じる所がありますね。

 初代・諸戸清六は質素倹約の持主でした。
 そして「時は金なり」という言葉を重んじていました。あつあつのご飯だとすぐに食べれないので、ごはんは冷や飯と決めていました。徹底していますね。

 私は、初代・諸戸清六には遠く及ばない凡人なので、のんびり桑名の名物・焼き蛤を食べようと思いました。しかし観光に熱中するあまり焼き蛤を食べる時間がありませんでした。
 

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