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徳川家康の厚い信頼を得ていた藤堂高虎。三重県津市

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 今年の大河ドラマは「どうする家康」です。そこで徳川家康の側近で、初代・津藩主の藤堂高虎の話を書きます。
 私の素人予想で恐縮ですが、藤堂高虎は秋ぐらいには登場すると予想しています。

 5月6日、近鉄・津新町駅を降りて津城跡(お城公園)へ向かいました。津藩の初代藩主は藤堂高虎です。
 公園内には藤堂高虎の銅像がありました。再現された櫓がありました。
 10代藩主・藤堂高兌が設立した藩校(有造館)の門もありました。藩校があった場所から移設されています。入徳門と呼ばれています。津市は戦争中に空襲で被害を受けた地域ですが、入徳門は奇跡的に残っています。

 ところで藤堂高虎といえば「外様大名なのに徳川家康の厚い信頼を得ていた」と紹介される事があります。
 外様大名の定義ですが、小学校・中学校の歴史で習います外様大名の定義ですと「関ヶ原の合戦以降、徳川に従った大名」です。
 そのため、その定義で見ますと「藤堂高虎は外様大名なのに、なぜ徳川家康の信頼が厚かったのか不思議だ」となります。

 しかし、実際には外様大名にも種類があり、豊臣秀吉に従っていたが、豊臣秀吉の死後、徳川家康に従った大名も外様大名になります。藤堂高虎が良い例です。
 その上、藤堂高虎の場合は以前から徳川家康と親しくしていた事もありました。そのため藤堂高虎の場合、豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康に対して「今まで俺は豊臣秀吉に従っていたけど、これからは徳川さんの力になるぜ」と言って、徳川方になったといった所でしょう。

 藤堂高虎は現在の滋賀県甲良町出身です。地元の有力者の出身だったようです。
 最初、浅井長政に仕えました。もしかしますと浅井長政の妻で絶世の美女と言われたお市を見ていると思います。大河ドラマ「どうする家康」では北川景子さんがお市を演じています。
 その後、藤堂高虎は主君を変えながら、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長に仕えました。秀長の仕えていた時代に、築城の才能を発揮していく事になります。藤堂高虎は近江出身。近江といえば石垣の穴太衆です。実際、藤堂高虎は穴太衆を抱えていました。建築士がいても、実際に工事に携わる名大工がいないと立派な建物はできません。藤堂高虎は名大工を抱える事で築城の名人になっていきました。その才能は、のちに徳川家康から重宝された理由の1つでもあります。
 秀長の死後、秀吉に仕え、そして秀吉の死後、徳川家康に仕える事になりました。

 津城は、織田信長の弟・織田信包が城主でしたが、そのあと、藤堂高虎が城主になった際、改築を行いました。

 ちょっとした大河ドラマの予習(?)をしながら、津城跡を散策しました。

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