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安息国(パルティア) 。イランの古代の話
最近、イラン情勢が緊迫しています。ホルムズ海峡はタンカーの通り道だけに、日本としても他人事ではないです。
ところで紀元前3世紀から紀元後2世紀の間の500年間、今のイラン辺りにパルティア帝国がありました。日本では弥生時代にあたります。
そのパルティアですが、中国語名は「安息国」と言います。緊迫感がない名前ですね。
なぜ中国名があるのか。それは中国の後漢の時代、漢王朝がローマ帝国へ使者を送った際、途中のパルティアに立ち寄ったためです。
漢の使者がパルティアで何をしたのか、何を見たのかは、わかりませんが、安息国という名前をつけました。単なる当て字なのか、それとも心穏やかな国だったのか。
ギリシャの文化が大きかった帝国でした。アケメネス朝ペルシャがありました所、マケドニアの指導者だったアレキサンダー大王が東へ進出し、インドまでやってきました。この時、ギリシャとインドがつながりました上、文化が行き来するようになりました。ギリシャ文化とオリエント文化の融合です。
アレキサンダー大王の死後、分裂し、イラン周辺はギリシャ系のセレウコス朝シリアが統治しました。その後、ペルシャ系のパルティアが独立しました。
当時は、イスラム教がなかったため、当時のイランがどんな様子だったのか、興味が沸きますね。
ところで後漢はローマに使者を送りました。その前段階として、中国の前漢の時代、西の世界はどうなっていたのか、調査のため張騫を使者として送りました。
その時、アフガニスタン辺りを統治していた大月氏国で、様々な情報を得て帰国したと言われています。
意外と古くから東西の交流があったのは驚きですね。