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島津久光は凄いオッサン(失礼!)だった話

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 昨年のNHK大河ドラマ「西郷どん」でも登場しました島津久光。
 兄で名君だった島津斉彬と比較される上、斉彬亡き後は、島津藩主になったわけでもなく、大久保、西郷の陰に隠れて低い評価を受けています。
 島津久光の肩書きといえば何もなく、薩摩藩主・島津忠義の父親という立場でした。表現は悪いですが「島津家のオッサン」です。
 しかし、藩主でもない島津久光の経歴や行動をみますと、通常では、ありえない行動をしています。

 文久の改革です。藩主でも何でもない島津久光が呼びかけて、親藩大名(会津藩主・松平容保、福井藩主・松平春嶽)を巻き込んだ幕政改革でした。
 薩摩から朝廷に働きかけて実現したものですが、前例破りの改革でした。
 幕政に関われるのは将軍家と譜代大名で、親藩と外様は幕政には関われませんでした。
 しかも、外様藩主でもない島津久光が幕政に関わるというのは、仰天すべき出来事でした。

 明治になり島津久光は、大久保・西郷の急進的なやり方に反対の立場をとっていました。
 大久保・西郷は、島津久光には、直接、逆らえないため対応に苦慮したようです。2人にとって「面倒なオッサン」だったようです。
 島津久光は、廃藩置県に対して怒り心頭だったため、やけ酒ならぬ、やけ花火を上げました。

 明治6年、西郷隆盛が政府の役職を辞任して鹿児島に帰る「明治6年の政変」の翌年、島津久光は左大臣に任命されました。今でいう副首相にあたる役職です。
 当時、右大臣だった岩倉具視よりも上でした。大久保利通達のやり方に意見を言い続けるものの、大久保利通に却下されてばかりだったため、辞任してしまいました。

 その後、西郷隆盛が西南戦争で戦死し、大久保利通が暗殺されると、薩摩の影響力が低下し、島津久光の影響も小さくなりました。

 ところで島津久光が亡くなったとき、鹿児島で国葬が行われました。国葬を行うために建設された道路が今も残っています。
 国葬が行われるという事は、明治政府は島津久光の功績が認めていた証拠ですね。

 歴史の教科書や大河ドラマでは低く評価されがちな島津久光ですが、角度を変えてみると、凄い人ですね。

 ちなみに島津久光の孫が上皇陛下の祖母にあたります。皇室と島津久光が血縁関係です。知らないと驚いてしまいそうな事実ですね。

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