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ローマ教皇が3人いた話。中世ヨーロッパの教会大分裂。
先日、ローマ教皇のフランシスコ教皇が来日されていました。そこで今日はローマ教皇に関する話を書きます。
1309年、フランス国王・フィリップ4世はローマ教皇・クレメンス5世に圧力をかけ、教皇庁をローマからフランスのアヴィニョンへ移動させました。
バビロン捕囚(アヴィニョン捕囚)です。この事件の背景については、ここでは省略します。
それ以来、ローマ教皇庁がフランスにあります事から、教皇はフランス人で、枢機卿もフランス人が多数を占めることになりました。
そして、1372年、グレゴリウス11世が教皇の時、ローマに戻りました。
グレゴリウス11世の死後、イタリア人の教皇が誕生しました。
この時、枢機卿の多数を占めていたフランス枢機卿達が反発しました。そこでフランス人枢機卿達はアヴィニョンで、教皇を擁立しました。
そのため教皇が2人になりました。アヴィニョン教皇庁とローマ教皇庁です。でも、それだけに留まりませんでした。
両者は対立するものの、アヴィニョン教皇庁とローマ教皇庁の枢機卿が話し合って、2人の教皇を退位させて、新しい教皇を擁立する事になりました。
しかし、2人の教皇は退位を拒否して、それぞれの支持者(国家を含む)の支援を受けて、3人の教皇が存在するようになりました。教会大分裂です。
この時、カトリック内部の派閥争いだけでなく、各国家の思惑もありました。
大混乱が続きましたが、コンスタンツ公会議が行われ、3人の教皇が退位し、1417年に新たにマルティヌス5世が教皇に選出され、教会大分裂が解消されました。
ところで教会大分裂が起こっていました際、カトリック内部の酷さに、オックスフォード大学のウィクリフが宗教改革を提唱しました。
それがチェコに飛び火し、フスによる宗教改革が起こりました。コンスタンツ公会議の結果、フスが火あぶりにされたためフス戦争になりました。
その後も宗教改革の火種はくすぶり続け、ルターの宗教改革につながりました。
アヴィニョン捕囚から3人の教皇の誕生、宗教改革。歴史はつながっていますね。
ところで「教皇」の名称ですが教会の皇帝という意味です。
中世の西ヨーロッパでは世俗と宗教でそれぞれ頂点となる人物がいました。
世俗の頂点は皇帝でした。対比させるため、宗教界(カトリック)の頂点は教会の皇帝という事で教皇と呼ばれています。