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義仲寺。木曽義仲と巴御前との間の夫婦愛の話。滋賀県大津市

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 11月23日、大津市にあります義仲寺へ行きました。名前の通り、木曽義仲にまつわるお寺です。
 読み方ですが、人名は義仲(よしなか)ですが、お寺は義仲(ぎちゅう)と読みます。不思議ですね。

 平安時代末期、木曽義仲は以仁王の令旨により平家追伐を行い、その功績が認められ将軍として上洛する事になりました。
 しかし、木曽義仲の京都での粗暴な振る舞いだったため、困った後白河法皇は、木曽義仲を体よく都から出て行ってもらうため、木曽義仲に平家討伐の宣旨を出しました。その一方で、源頼朝に上洛を促し、その上で木曽義仲討伐命令を出しました。

 そのため木曽義仲と源頼朝は衝突する事になり、主戦場が大津市の粟津になりました。この戦いで木曽義仲が戦死しました。
 木曽義仲が戦死し、ある程度の年数が経った時、1人の尼がやってきて、主戦場の近くに、お墓を作り、そして日々供養しました。
 周辺住民は尼に対して名前を聞こうとしても「私は名も無き女性です」としか答えませんでした。
 その女性は、木曽義仲の側室・巴御前です。巴御前が建てた草庵を「無名庵」と呼ぶようになりました。

 時代を経て室町時代末期、近江守護だった佐々木六角が、義仲の墓のある場所に義仲寺を建立しました。

 ところで義仲寺境内には巴塚があります。巴塚の看板を見ますと、なんと巴御前は夫の木曽義仲と一緒に討ち死に覚悟で戦いに臨みました。
 敵将の恩田八郎を討った後、義仲から「お前は生き延びろ」と言われ、涙ながらに鎌倉へ行ったと伝えられています。その後、尼僧になり、この地で夫の供養ための墓を作りました。巴御前は女武将で平家討伐の際も木曽義仲に付き添って戦いました。

 ただ、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には巴御前の記述がないため、謎の多い女性とされています。
 女武将。今の感覚では「女性も戦場に出たのか」と驚きを感じますが、意外と女武将はいたようです。

 ところで義仲寺境内には松尾芭蕉の墓もあります。松尾芭蕉が木曽義仲に同情し、義仲に関する詩を作ったりしていました。
 そして遺言で「義仲の墓の隣に、自分の墓を作って欲しい」と言い、松尾芭蕉の墓もできました。

 お寺巡りする事で、色々な歴史を学ぶことができますね。

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