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今も昔も変わらない日本人の宗教観。

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 お正月、神社やお寺へ初詣に行かれた方は多いと思います。
 普段は、神仏に対して祈る事をしていない方も、正月や何か特別な行事がある時だけ、神仏を祈る方は多いと思います。私もそのうちの1人です。
 元旦は地元・兵庫県西宮市にあります廣田神社へ初詣に行きました。

 ところで昔の日本人はどうだったのか。真面目に神仏を信仰していたのか気になりますね。
 「神仏と中世人」(衣川仁:吉川弘文館)を読みますと、実は平安時代から室町時代の日本人も、同じような感じだった事がわかります。 

 当時の貴族も庶民も神仏に対して、形式的に信仰したり神仏に対する畏れを示していましたが、実際には熱心に信仰しているわけではありませんでした。
 為政者は善政を行っている事を示すため、神仏への祈り(干ばつの際の雨ごい)を行っていましたが、成否は問われず、成功すれば記録され、失敗しても「神仏への批判は避けよう」という事で、あまり記録されませんでした。形式的に神仏に対する遠慮を示していました。

 紛争協議の際、神仏を持ち出して、神仏の力を味方につけたり、物事を正当化したり、相手に脅しをかけたりしていました。
 反対に訴えられた側は、神仏を持ち出されたからといって、自分たちが不利益になる場合は、上手に回避する事を考えていました。神仏の教えに無条件に従う人達たちではありませんでした。
 寺社同士が紛争を起こした時は、神仏を利用して、相手の寺領や社領に対して嫌がらせを行ったり、嫌がらせを受けた方の住民や寺社は、代官所に嫌がらせを取り除くよう申し立てていました。形式的に神仏を怖がっているように見せて、実は神仏を怖がっていない人達でした。

 今も昔も変わらない日本人の宗教観を読み取れますね。
 その宗教観のお陰で日本は救われた事があります。戦国時代、イエズス会の宣教師達が日本人をカトリックに洗脳しようと目論みました。
 しかし日本人から突っ込みや矛盾点を突かれて、宣教師が往生しました。当時の日本人が賢かっただけでなく、基本的に神仏にのめり込まないため、宗教に対して客観視できたためでした。その結果、カトリックによる洗脳作戦は失敗に終わりました。

 歴史を垣間見ますと面白いですね。

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