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疫病、天災が奈良の大仏につながった話。

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 コロナウイルスの流行で、世界中、大混乱しています。デマに流されないよう冷静に対応していきたいところですね。

 ところで今みたいに科学が発達していますとウイルスが原因とわかりますが、奈良時代、疫病が流行った場合、神仏に祈るしかありませんでした。
 聖武天皇の時代、疫病が流行り、朝廷の高官を務めていた藤原四兄弟(藤原不比等の4人の息子)をはじめ、朝廷の高官達が相次いで病死しました。
 朝廷の機能不全に陥った上、藤原広嗣の乱が発生しました上、その前後は旱魃や噴火など天災に見舞われました。

 そのため以前、ブログで紹介しましたが、聖武天皇は悪い流れを断ち切るため、遷都をする事にしました。
 平城京→恭仁京→紫香楽宮→難波宮と遷都を繰り返し、平城京に戻ってきました。聖武天皇が引越し魔と呼ばれる所以です。

 最後は仏にすがるしかないと考え、大仏建設を行う事になりました。
 しかも唐とは対等外交を行っていると思い込んでいた朝廷だったため、諸外国に日本の力を見せる事もあり、経済力からして分不相応な大仏の建設を行う事になりました。当時として世界最大の鋳造物で、その後、1000年以上の間、世界一の鋳造物でした。

 当時、土木技術の専門家で、民間で灌漑事業の陣頭指揮を執っていた行基が、大仏建造の責任者として抜擢されました。
 この時、行基は74歳。当時としては長寿です。聖武天皇、行基が疫病にかからなかったのはなぜか興味深いです。
 大仏がほぼ完成した頃に行基は82歳で亡くなりました。大仏殿が完成し、インドの僧を招いて盛大に開眼法要を行いました。
 インドの僧は、どうやって日本にまで来たのか気になりますね。

 開眼法要の2年後、鑑真が来日しました。鑑真は発展途上国だった日本に巨大な大仏がある事に驚いたかもしれないですね。
 その一方で、阿倍仲麻呂が帰国できず、大仏を拝む事なく、唐で亡くなったのは、かわいそうですね。

 国家安寧を願った聖武天皇ですが、大仏をはじめ全国に国分寺、国分尼寺の建設や、遷都の繰り返しで、財政的には疲弊し、民衆を疲弊させる結果になりました。

 科学や医学が進歩した現在、大仏に祈っても効果がないのはわかりきっていますが、それでも不安解消のため、心情的には大仏に祈りたくなりますね。

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