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百済寺跡公園と百済王神社。大阪府枚方市
3月14日、枚方市へ行きました。京阪・枚方市駅の近くに百済寺跡公園と百済王神社があります。
百済寺跡は礎石があるぐらいで、伽藍があった面影は全くありません。その横には百済王神社があります。
663年の白村江の戦いで日本・百済連合軍が惨敗し、百済が滅亡しました。
その時、百済の人達が日本に亡命し、その一部が、この地に住んだと言われています。
日本書紀の天智天皇の章に「百済王・善光を難波に住まわせた」と書いています。
百済国の王が日本に亡命して日本に住むようになったという記述です。この記述の百済王は「百済国の王」という意味です。
その後、百済国の王の子孫は帰化して大和朝廷に仕えるようになりました。
そして続日本紀の称徳天皇の章の天平神護2年6月28日条に「百済王敬福が薨じた」と書いています。
百済王敬福が亡くなったという意味です。三位以上の貴族の場合、亡くなった事を「薨(こう)じた」を表現します。
天平神護2年は766年で白村江の戦いから100年後になります。道鏡と怪しい関係になった称徳天皇の時代です。
内容は百済王敬福を称える物です。百済王敬福は刑部卿で従三位だった事が書いています。刑部卿は、今でいう法務関係を司る役所の長官です。
続日本紀には「持統天皇が善広に百済王という姓(かばね)を与えている」と書いています。
祖先は百済国の義慈王で、その子供の1人が善広で持統天皇の時代に百済王という姓(かばね)を賜ったという記述です。
まさに日本書紀に出ています百済から逃れてきた王族の子孫の事です。
聖武天皇が大仏建立の際、大仏の鋳造まで終わったものの、金メッキするための金が足りませんでした。この時、陸奥国の守だった百済王敬福は、金を採掘し聖武天皇に献上し、三位になったと書いています。これが日本で最初の金鉱発見とも書いています。
古代の日本は技術がなかったため、渡来人の技術力を借りていました。
金山開発は、渡来系の百済王氏だからこそ、可能だったのかもしれないですね。
さて百済王神社の看板の説明を見ました。
760年頃、氏寺として百済寺が建立されたと書いています。
そして870年頃から百済王氏が中央政界の舞台から記述がなくなると書いています。何があったのだろうかと疑問に思いますね。
古代の遺跡などを見ますと、歴史を垣間見る頃ができますので面白いですね。