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侘び寂びの祖・村田珠光と茶道発祥の地。奈良県奈良市
4月10日、奈良公園の近くに石碑があるのを発見しました。
茶道発祥の地と書かれていました。茶道の心得が全くない私ですが、ネタになるかと考え、何気なく撮影しました。
後日、写真をじっくりみましたら「村田珠光」の名前がありました。侘び寂びの祖・村田珠光です。室町時代の商人で茶人です。
南北朝時代から室町初期にかけて、日本ではバサラ文化の全盛期でした。
バサラとはサンスクリット語でダイヤモンドの事です。バサラを漢字で書きますと「婆佐羅」です。
当時の日本で、既にダイヤモンドが認知されているのは驚きですね。
バサラ文化とは名前の如く、派手で贅沢な振る舞いをする文化でした。そのため室町幕府が成立した時、建武式目でバサラ禁止令が出たぐらいです。
それでもバサラをやめない守護大名や公家はいました。
バサラ文化の茶といえば、茶寄合と呼ばれ、唐風の内装に唐風の調度品を揃えた部屋で椅子に座ってお茶を飲むという、唐かぶれな事をしていました。
そして闘茶という、茶の銘柄を当てたりする事をしていました。利き酒ならぬ利き茶競争です。侘び寂びとは正反対でした。
現在で例えますと、西洋風の内装で、英国式のアフタヌーンティーを楽しむ感じに近いかもしれないですね。
そんな中、破戒僧でお茶大好きな一休宗純に茶を習った人がいました。村田珠光です。
一休さんは、どんな茶道だったのかは、私にはわかりません。ただ、村田珠光が詫び寂びにたどり着く条件はありました。
一休さんは京都にあります臨済宗の大徳寺の僧侶です。禅宗ですね。村田珠光は茶と禅とを組み合わせた独自の世界観を作り出し、現在の侘び寂びの原点を生み出しました。
侘び寂び。質素な気がします。しかし、雰囲気が質素なだけで、当時の抹茶は高級品でした。
そのため庶民には茶道は無縁の世界でした。今でも敷居が高い感じがしますね。
庶民が緑茶を楽しめるようになったのは江戸時代からです。
煎茶の製造法を考案した永谷宗円。京都府綴喜郡宇治田原町 (2019/5/20のブログ)
石碑を見た時は、何気なく撮影しましたが、あとで調べてみますと茶道の祖・村田珠光が一時期過ごした称名寺が、この近くにある事を知りました。
石碑は称名寺の案内板でしたが、称名寺の事を知らなかったため、称名寺へはいきませんでした。称名寺の写真が掲載できずに残念と思いました。