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日本の三権分立は大阪で決まった。大阪会議の跡地
大阪証券取引所の側を通りますと、大阪会議の跡地があります。
明治8年、五代友厚の呼びかけに応じた明治政府の要人の大久保利通、板垣退助、木戸孝允達が集まって会議をした場所です。
単なる会議でしたら「あっそう」になりますが、日本の運命を左右する重要な会議でした。
明治6年に征韓論を巡り、明治政府内で対立が起こり、西郷隆盛が下野したのは有名な話です。
でも、調べてみますと、江藤新平、板垣退助をはじめとする政府中枢の半分や、多くの官僚が下野したため、大混乱状態でした。
その直後も明治政府内で対立が続き、政府中枢の木戸孝允が下野する事態になりました。大久保利通の独裁体制。
江藤新平の佐賀の乱をはじめ、板垣退助の自由民権運動。明治政府は危機的状態でした。
これではまずいという事で、大阪の実業界で活躍していた五代友厚が両者の間を奔走し、大阪の料亭「加賀伊」で会合を開く事になりました。これが大阪会議です。
大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文、井上馨達が集まり、囲碁などをゲームや宴会を行いながら緊張をほぐし、その後、両者が話し合いました。
その結果、木戸孝允、板垣退助が明治政府に復帰する事が決まったと同時に、明治政府の改革案が示されました。
その時、元老院(立法)、大審院(司法)の設立の方向に決まりました。日本の三権分立の出発点ですね。
余談になりますが、大阪会議の料亭「加賀伊」ですが、大阪会議の成功に喜んだ木戸孝允が、屋号を「花外楼」を変更する事を提案。
それ以来、料亭の屋号は「花外楼」になりました。
正直な事を書きますと、大阪会議の開催の地のレリーフに書かれています「三権分立 漸時立憲合意に至る(大阪会議)」を見て、初めて知りました。
身近な所に、こういう話があるのを知らなかっただけに、驚きと同時に、身近な事でも知らない事が多い事を痛感させられました。